うたわれるもの

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 くるくると深淵へと続く螺旋階段を下りた先にその世界はある。


「うわっ、窓締め切ってる。」
 どうりで届かないはずだと思った。時矢はその部屋に入ってまず真っ先にご丁寧に鍵まで掛けられたその窓を開け放った。窓の先には青い空、があるわけもなくただ真っ暗な空間が広がっているだけだ。
 深い闇の中に存在するたった一つの部屋。それがついこの間まで時矢の世界の全てだった。そして今はもう一人のための世界。
「窓、閉めたらダメだよ。」
 この窓はここから外の世界を知るための唯一の窓口。
「ね、聞いてる?」
 返事が返ってこないことに焦れて振り返る。窓のある丁度反対側の壁に沿うようにしてベッドが置いてあった。水色の水玉模様という可愛らしいベッド。それに横たわるように眠る人がいた。

「トキヤ。」

 名前を呼んでも横たわる人はピクリともしない。

 ここは『一ノ瀬時矢』という心の奥深くに存在する深層心理を映し出す世界。そして『トキヤ』の生まれた場所だ。

 世界が生まれた瞬間から停滞し続けるその世界の形は時矢が幼い頃、両親と暮らしていた部屋をそのまま切り取った形をしている。
 可愛らしいベッドカバーも母親が『僕』のために買ってきたものだ。それとおそろいのカーテンも。時矢の記憶に従って風もないのに窓辺でひらひらと揺れている。
 トキヤが生まれると同時に時矢はずっとこの部屋に籠って生きてきた。時々窓からトキヤを通して外の世界を見るだけで、ほとんどの時をここで過ごした。ここには時矢の幸せがいっぱい詰まっていた。でもトキヤにとってはどうなんだろう。
「音也君に会ったよ。トキヤに言われたとおりにトキヤは死んだって伝えた。納得してなかったし随分衝撃を受けてたけど、本当にこれで良かったの?」
 時矢の口調がトキヤに比べて幾分幼いのは時矢が10歳で時を止めてしまったからだ。
トキヤみたいに喋れなくて恥ずかしい。時矢が表に出る前にトキヤにそう零したとき、トキヤは笑って私はその話し方も大好きですよと言ってくれた。
「ねぇ、トキヤ。これで本当に良かったの?これがトキヤの望むこと?」
 時矢が望めばトキヤは何だって分かってくれて叶えてくれた。10年近い年月を時矢の変わりに生きることさえしてくれた。僕はそれに甘えて今まで生きてきた。
 でも、
「トキヤの本当が僕には分からない。」
 トキヤが死んだとそう告げたときの音也の顔を思い出す。意味が分からないと全身で訴えかける彼にわざとトキヤとは全く違う話し方で答えた。そのほうが音也君も分かりやすいと思ったから。

 ***

「主人、格?」
「知らない?解離性同一性障害の場合、基本となった元の人格のことを、」
「わ、わかるよ!!!那月のこと知った時に少し、調べた。」
「知ってるよ。」
 その言葉に音也は弾かれたように今まで逸らしていた視線を向けた。ようやく合った目線に少しだけ心がときめくのを感じる。きっとこれはトキヤの名残。
「見てたもん。知ってる。」
「見て、た?」
「そう、トキヤの中からずっと見てた。」
 あの小さな部屋から、窓の外の世界を。
「ずっと?」
「そう、ずっと。時々外にも出てた。」
 たまにはどうですか?その言葉と共に時々トキヤは時矢の手を引いて螺旋階段を上っていった。背中に手を添えて。そっと真綿のような優しさでくるむようにして時矢を浮かび上がらせた。
「そうだよね、春歌ちゃん。」
 二人のことをはらはらしながら見守っていた彼女に声を掛けると彼女はビクッと震えて、そのままの震えた声で小さく「はい」と答えた。
 あぁごめんね、春歌ちゃん。困らせてごめん。でももう少し付き合って。
 音也君が納得してくれるまで。
「七海?」
 愕然とした表情で絞り出すように音也は春歌を呼んだ。
 あぁ、ダメだよ。そんな風に言ったら春歌ちゃんが怯えちゃう。
「ご、ごめんなさい。その、何度か。ご一緒に練習させていただい時に」
 お会いしましたと蚊の鳴くような声で答える七海の、元々青かった顔色が紙のように白くなっていく。
「春歌ちゃんをいじめちゃダメだよ。」
 見かねて春歌を庇うように前を出ると音也は呆然とした表情のまま時矢の顔を見上げた。
「トキヤ?」
「違う。僕は時矢。」
「言ってる意味が、わかんない。」
「…だろうね。僕もどう伝えたら良いのかわかんないもん。」
 二人とも黙り込んでしまっても病院という空間はあちこちで働く人、入院する人の声が聞こえてくる。それを聞くともなしに聞いているとふいに呻く様な音也の声が聞こえて時矢は耳を澄ました。
「…ずっと、見てたの?」
「そうだよ。」
「俺のことも?」
「うん。でも、見てないよ。」
「―…」
「トキヤは色んなことを俺に見せてくれた。HAYATOの見るもの、トキヤの見るもの。良い事も悪い事も。学園生活もトキヤに見せてもらっていた。」
 そして何時だって外に出たい時は言ってくださいね。と優しい声で時矢を包んでくれた。あの部屋に引きこもって以来外が怖くて仕方がなかった俺をそっと癒すように。
 けれど、たった一つだけ。たった一つだけトキヤが時矢に見せようとしないものがあった。
「音也くん、トキヤが。二人が恋人として二人っきりで居るときだけ、僕は見ていない。」
 音也は項垂れたままこちらを見てくれない。ねぇ伝わっている?トキヤの想い。
「トキヤはいつもその時だけ僕に目隠しをした。小さな窓を閉めて、僕が外を見ないように。音也君を見ないように。」
 トキヤは君が本当に好きで、好きで、トキヤに見せるその甘やかな表情の一瞬でさえも自分だけのものにしたいとそう思うほどに。
 何一つ、自分のものではないのだと時矢に言い続け、事実何ものにも執着を見せようとしなかったトキヤが唯一自分だけのものにしたいと、そう思った人。
「トキヤは本当に、本当に音也君のことが好きなんだよ。」
 でも、ごめんね。トキヤはそれ以上に僕の事が大切なんだ。
「…音也くん?」
 俯いたまま黙り込んでしまった音也の肩にそっと手を伸ばす。その指先が触れるか触れないかの内にパシっと音を立てて振り払われた。
「ご、ごめん!」
 きっと何も意識してない行動だったんだと思う。音也はその音に自分で驚いて慌てたようにごめん、ごめんと謝ってきた。
「ごめん。でも、おれっ、全然わかんない。全然わかんないよ!!!君は!!
−……君は、トキヤじゃ、ない、の?」
「そう。」
「トキヤは、もう、居ない?」
「そう。」
「トキヤは、」
 何を続けたかったのだろう。音也は震える声を途切れさせてそのまま病室を走り去ってしまった。「一十木くん!」と春歌が慌てて追いかけようとするが、病室の入り口で我に返ったようにこちらを振り向いた。
「時矢、くん…」
 困ったような、悲しいような、どうしたらいいのか途方にくれた声でそれでも立ち止まってくれた春歌の優しさに時矢は泣きたくなった。
 本当だね。トキヤ。外の世界は嬉しい事半分、辛い事半分。
「ごめんね、春歌ちゃん。僕が出てきちゃって、春歌ちゃんもトキヤに会いたいよね。」
「そ、そんなことありません!時矢君にお会いできて、嬉しいです!でも、でもっ…
 一ノ瀬さんは、本当に一ノ瀬さんは、もう?」
「…わかんない。僕も本当は何にも分からないんだ。」

 トキヤ、トキヤ。ねぇトキヤ、聞こえてる?ちゃんと見てた?音也くんが傷ついてるよ。ねぇトキヤ、分かってる?

 ***

「窓、閉めちゃダメだってあれ程僕には口すっぱく言ってたのに。」
 閉じこもっちゃダメだって、外を見ていなきゃダメだって、外に出るのは怖くても、見るのを止めちゃだめだって。あれは嘘だったの?
「ここに来てからずっと見てなかったの?音也君のことも?ねぇ、トキヤ、もう起きてくれないの?」
 トキヤはただただ、今までの疲れを癒すように眠り続けている。
「疲れちゃった?」
 答えのないまま僕はトキヤに話し続けた。
「トキヤ?」
「一人は寂しいよ。」
 今までずっとそうしてきたように。僕の話す相手はトキヤしかいなかったから。
「まだわかんないことたくさんあるよ。」
「放り出さないでよ。」
「トキヤ。」
 起きてよ。トキヤ。
 話を聞いて?僕分かったんだ。

 生きるのってとっても難しいんだね。

 ***

 テレビ局の廊下を歩いていた。通りかかる人通りかかる人に挨拶を返すのは業界人として当たり前のことだと、トキヤに言われた言葉がこんなにも自分の中に染み付いている。
 トキヤが死んだと『トキヤ』に言われて2週間が経っていた。
 何の実感も湧かない中、音也の時間はただ淡々と過ぎていった。朝起きて、スケジュールを確認して家を出る。何にも面白い事なんてないのに顔に笑顔を貼り付けて仕事をする。あれだけ大好きだった歌だって今はただむなしいだけ。機械のように一日をこなして家に帰って崩れ落ちる。ベッドも、ソファもその全てにトキヤの思い出があって、けれどトキヤはいなかった。
 あれから『トキヤ』と七海とも一度も会っていない。会う機会はあったのだけれどことごとくそれを避け続けたらあっという間に2週間も経ってしまった。あれほど出来れば毎日でも会いたい、会って触れ合っていたいと思っていたはずなのに。
 トキヤだけど、トキヤじゃなかった。時矢って、七海も知ってたって、どういうこと?あの日から『彼』は普通に『トキヤ』としての生活を開始したようだった。お見舞いに行った。お前はどうしてる?と聞いてもいないのに届く幾つかの報告メールでそれを知った。それにこの前テレビに映っている姿を見た。
 はは、おかしいな。あんなに近くに居たはずなのに、今やトキヤはテレビの中の人になろうとしてる。はは、おっかしいの。はは…

 夢は、まだ覚めない。


 今日は逃げられない。音也は楽屋の前でごくりとつばを飲み込んだ。ここに辿り着いてから数分は経過しているけれどなかなか扉を開ける事ができない。扉の横には達筆な字で一十木音也様、一ノ瀬トキヤ様と書かれていた。同じ事務所で同期同士、学園生活では寮も同じだった俺達はバラエティなどに一緒に出させてもらう事がとても多い。それを思えば今日まで2週間も避け続けることが出来たほうが実は奇跡だった。
 ぎりっと肩に掛けた鞄をうっすら汗の滲んだ手で握りなおす。
 あの日渡せなかったプレゼントは今も鞄の中に入れっぱなしになっていた。
 ありたっけの想いを込めて買った。トキヤに渡すはずのプレゼント。
 これはもう、渡せない?

「そんなの、そんなのってないよ。」
 ドアノブを握り締めたまま動けずに居ると、不意に腕を引かれて音也は楽屋に転がりこんだ。
「遅いですよ。」
 慣れた声が、焦がれていた声が音也の耳朶を叩く。
 ドアを内側から開いた体勢のままトキヤがそこにいた。不意のことでバランスを崩した音也の頭の天辺の辺りがトキヤの体に触れていてじんわりと暖かい。
 心臓の奏でる音楽がどんどんテンポアップしていく。
「何をしているんですか。早く入りなさい。」
 その声に条件反射でまだ外にいた足を中に踏み出すと、トキヤはそれを見届けてドアを閉めた。途端二人きりの空間が出来上がる。
「…トキヤ?トキヤ!」
 この声の持ち主を音也はよく知っていた。2週間前聞いたHAYATOよりは低いけれど少し明るめの声とも違う。毎日、聞きなれた心地よい声色。
 あぁやっぱり。死んだなんてうそだったんだよね。そうだよね?嘘付くなんて酷いよ!そう続けようとした声は続いて聞こえた言葉に叩き落された。
「…違うよ。僕は時矢だって言ったじゃない。」

「急に僕を出すと皆戸惑うから、少しの間は『トキヤ』を意識してようと思って。」
 その様子じゃとっても上手く出来てるみたいだね。と、酷い事を言っているのは『トキヤ』のはずなのに自分が傷ついたような声で言われて音也の指先が震えた。
「なんで、」
「だから…」
「それでもっ、俺はもう知ってるんだ!それを俺の前でする必要があった!?止めてよ!トキヤがし、し、死んだって、そう言うなら、そういうの止めてっ!止めて!!」
 止まらない。こんな大声を出せば廊下にだって聞こえているだろう。何事かと誰かが来てしまうかもしれない。何より変な噂になってしまうかもしれない。
 自分の中の冷静な部分が止めておけと判断を下すのに、ふと落としてしまった鞄の中から小さな箱が覗いているのが見えて、フツリと何かが断ち切られてしまった。
「音也、くん?」
 宙に浮いていた『トキヤ』の腕を掴み、引っ張る。引かれるまま付いてきた体を無造作に突き飛ばせば丁度畳になっていた場所に転がった。マサのものよりも暗い、夜空のような濃紺の髪が使い古された黄みがかった畳の上に広がる。
「な、何?」
 戸惑う『トキヤ』の体を馬乗りになって押さえつけてやれば、上ずった声を上げて震えた感触が『トキヤ』を拘束する手のひらから伝わってきた。
「ねぇ、君が時矢でも何でもいいよ。那月の時も調べたけどもう一回調べたよ。『解離性同一性障害』、だっけ?俺さぁ馬鹿だから。難しいことわかんないけど。
つまり昔『トキヤ』にショックなことがあってトキヤが生まれたってことだよね?じゃあさ。今俺が時矢に酷い事をしたら、トキヤは出てきてくれるのかな?」
「な、何をっ」
「何って、だから酷い事だよ。」

 ただトキヤに会いたかった。それだけだった。


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