「お早う。随分早いな。」
真斗は教室の扉を開けた瞬間、飛び込んできた赤色に驚いた。
「おっはよう!マサ!さすが、早いねー。」
「早いのは一十木の方だろう。どうした。何かあったのか。」
いつも、と言っては音也に悪いのだろうが一十木音也という人間は開始ギリギリに教室に滑り込むタイプの人間だ。
アイドルを目指す者としてそれは時間に対してもっとシビアになるべきだ、とは常々思っているのだが、実際本当に遅刻してしまうことはないので何も言った事はなかった。その手の類で言うならば自分の同室者の方がよっぽどひどい。
だが、授業が始まるのが8時半、現在はまだ8時で教室の中も未だ二人の他に誰も来ていないとあれば驚くのも無理はないだろう。
「何かって、酷いよマサ。俺にだって早起きできる時くらいあるって。」
「あ、あぁすまない。あまりにも驚いて。」
全くフォローになっていない。音也がやっぱり酷い…と机に倒れこんだ。
ふと音也の手元がキラリと光った。教室に差し込む朝の日の光が音也の持つ何かに反射したようだ。
「一十木、何を持っているんだ?」
そう聞くと机にへばっていた音也ががばっと起き上がってジャーン!!とそれを掲げた。
「見て!デジカメ!トキヤがいらないからってくれたんだ!!」
その顔は本当に嬉しそうで見ているこちらまで幸せになる。
「一ノ瀬が?それはよかったな。」
「うん。すっごい嬉しい!あ、でも聞いてよマサ!トキヤってば酷いんだ。昨日これ貰って初めての写真はトキヤ撮りたいってお願いしたんだけど、」
「一ノ瀬を?」
「そう。でも全然素直に撮らせてくれなくて。」
一ノ瀬が。音也には悪いがトキヤのその態度は妙に納得がいった。
「でも粘って粘って粘ったら一枚だけ撮らしてくれたんだけど。」
それは、どれだけ粘ったのだろう。音也は一つ決めたことにはまっすぐでその姿は見ていて気持ちよいが粘られたトキヤに少しの同情を禁じえない。
「でもね!メモリーカード入ってなくってさぁ!!!あぁもう!俺の馬鹿ー!!その後もう一回って粘ったけどOK貰えなくて、朝も早起きして頑張ったけど、」
そこで音也は言葉を切ったが続きは聞かなくてもわかった。
「そうか。残念だったな。」
「でも、絶対今日帰ったらもう一度挑戦するから!」
「…そ、そうか。頑張ってくれ。」
一ノ瀬も。と心の中で付け加える。
「で、マサ!マサの写真も撮らせて!!」
「俺、のか?」
「うん!」
「俺でよければ構わないが。」
そう言った瞬間音也の顔がぱぁっと輝いた。
音也がカメラを構える。教室の中ポーズをとるでもなくただ立っている俺を音也はメモリに収めていく。
途中で登校してきた七海や渋谷達、四ノ宮達も巻き込んでまるでクラス写真の撮影会のようになった。
「はいはい。皆席についてー。」
担任の月宮先生が教室に入って来た所で撮影会は終了となった。
「ありがとう、マサ。写真できたらあげるね。」
皆が席に戻って行く中音也に声を掛けられた。それに楽しみにしていると返事を返し自分の席に着く。
『写真できたらやるよ。』
音也の声が真斗の記憶の亡霊を呼び覚ます。
授業はとっくに始まっていたが亡霊がちらついて集中できない。
−あの時の写真はどうなったのだろうか。
小さい頃、『お兄ちゃん』と呼んで慕っていた人物がいた。
その少年は自分よりたった一つ上なだけなのに随分大人びて見えた。その少年は自分の知らないことをたくさん知っていて色んなことを教えてくれた。
出会う回数はそう多くはなかった。京都に住んでいた真斗にとって神奈川に住んでいたその少年はご近所とは言えず、出会うのは父上に連れて行かれるパーティーぐらい。
その上、真斗よりもこういった場所に来る回数は少ないらしい。それともすれ違っているだけかは分からないけど。毎回会える訳ではなかった。
それでもパーティー会場で会えたその日は、必ず少年の「行くか?」の一言でパーティー会場を抜け出して色んなところを冒険した。
それは屋敷の中だったり、見慣れぬ街並みであったり、海だったり。最後はどうにも思い出したくない悪夢と化しているが、どれも真斗にとってとても、とても大切な思い出だった。
どんなに警備の厳しい中でも抜け道を見つけ出して大人たちを出し抜く少年は幼い真斗のヒーローだった。
その日は父と一緒に海外の確かフランスの投資家とのガーデンパーティに出席していた。日本では純和風の家に住んでいる真斗にとって、煌びやかな装飾に縁取られた壁面や色とりどりの花で囲まれた迷路のような庭園は何度見ても御伽噺の世界のようだ。
そんな心躍る空間も大人たちがよく分からないお金の話をしているとなれば楽しいことなんて一つもない。
そのパーティーは何も大人たちだけという訳ではなかった。子ども達だってたくさん連れて来られていたが、よく分からない言葉で捲くし立てられてもさっぱりわからなかった。
むしろほんの少し怖いと感じて。
声を掛けてくれたその少女は所在無くしていた自分への親切だったのだろうが、どうしたら良いか分からなくて言葉も返せず立ち尽くしていた。
「Bonjour, Mlle」
ふと少女と自分の間に割り込んできた人影が一つ。
それが良く知る彼だと分かると真斗はほっと安心してそっと庇う様に差し出された手を握り締めた。
「お兄ちゃん。」
少女と話は付けてくれたのだろう。少女が笑顔で手を振りながら去っていく姿を見送って真斗は救い主に声をかけた。
「大丈夫か、真斗。」
「ありがとうお兄ちゃん。」
そう言うと『お兄ちゃん』は手を繋いでいない方の手でポンポンと二度頭を優しく叩いてくれた。
「行くか?」
本当はダメなんだと知っていた。ついこの間もイタリアのパーティーを抜け出して迷子になって、爺だけでなく父上にまで怒られた。
けれど…
父上も爺もパーティーを抜け出してはいけないという。『お兄ちゃん』と遊んではいけないという。言いつけられた『命令』と遊びたい『心』が揺れ動く。
繋がれた手。暖かくて優しい。何故ダメなのか父上も爺も教えてくれない。
お兄ちゃんと居る時は本当に楽しいのだ。爺にピアノを教えてもらっている時も勿論楽しくて嬉しいのだが、『お兄ちゃん』と遊ぶ時が一番楽しい。爺ほど頻繁に会える相手ではないからこそ。
真斗は『お兄ちゃん』の手を握り締めた。強く引かれた腕と共に二人はパーティー会場を抜け出した。
イタリアの時とは違い『お兄ちゃん』のポケットには小さめのカメラが入っていた。「ジョージに借りてきたんだ」とよく『お兄ちゃん』を迎えに来る人の名前を出す。
二人は色んな所でシャッターを切った。珍しい街並みだったり、大道芸人だったり。『お兄ちゃん』が上手く道行く人に声をかけて二人で撮ってもらったりもした。
勿論お互いでお互いを撮りあったり。当時はデジタルカメラなどは無かったため撮った写真を確認することは出来なかったけれど、その分現像された時がとても楽しみだった。
楽しい時間はあっという間に過ぎてとうとう俺達は爺とそれとジョージさんに捕まった。
何度も何度も懲りずに怒られる俺達に二人は爺はカンカンに、ジョージさんは呆れたように怒っていたけどそれさえも『お兄ちゃん』と一緒なら楽しい出来事だった。
「真斗!写真、出来たらやるよ。」
別れ際、手を振ってそう言う『お兄ちゃん』に真斗も大きく手を振って「うん!」と答えた。
とてもとても楽しみだった。一日がキラキラと輝いていたその証を真斗も早く見たかった。
あの写真はどうなったんだろう。もう捨てられてしまったのだろうか。
それとも現像さえされていないのかもしれない。
―お兄ちゃん、あの写真はどうしたの?
授業はいつの間にか終わっていた。
とてもじゃないが今の自分には、今の彼には聞けそうにない、と思った。
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