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 アーサーにとって妖精やユニコーンといった存在は生まれた時から当たり前のように見て、会話して、触れ合ってきたともだちだ。
だから分からなかった。気が付かなかった。
それが常人には見えぬ、物語の中にしかいない空想の産物という認識でしか捉えられぬものなのだと。しかし、理解できたときには、事態はすでに己の手の届かぬところまで広がっていた。

 真っ白な用紙に文字が一つ、二つ。その連なりは次第に意味を成し、単語となり、文章となり、物語となる。アーサーにとって物語とは世界だった。一冊の本とはそれすなわち一つの宇宙だ。そこに世界があり生きる人々がいる。
 そんな物語を生み出すことはアーサーにとって生きる意味そのものだった。アーサーは必死になって言葉を記す。世界を創る。彼らの生きる世界、彼らと、そして人の共存世界を、幻想と現実の織り成すファンタジーを。

「だからって、何で毎度毎度、お前はこうなるんだよ!!」

 突然鳴り響いたワンコール。夜闇に漂う静寂を破り捨てるかのように響いたそれは、たった一度だけだったが、枕元にあるがゆえにフランスのまどろみを見事打ち破った。いつもだったらこんな時間に電話など、睡眠を大事にしているフランシスは無視して二度寝となるところだったが、携帯で時間を確認し、夜中の2時を少し回った、いわゆる真夜中であることを確認してからゆっくりと身体を起こした。ふわぁっとあくびをしながら階段を降り、キッチンに入る。コンロの上の鍋を確認して火にかけると「行きますか。」と一人気合を入れて一階の書斎へ向かった。真っ暗な廊下にもれ出る明かりを頼りにたどり着いた扉を開けると、
 ガツン!
 押し開けた扉が何かにぶつかって邪魔をされた。フランシスが慌てて部屋を覗き込むと何とか部屋を出ようとして力尽きたのか、部屋の真ん中にこの家の主が行き倒れていた。そうまさしく行き倒れていたという表現が正しい。何日もろくな睡眠も食事もしていないのだろう。髪はボサボサで(いつもだけど)、服越しに見える体は骨が浮き出ているかのような細さで(これもいつものことだな)、目の下に出来た大きな隈が(これはいつもよりひどい)青白い顔をより一層不健康に飾っている。扉はその主のまん丸でぼさぼさの頭にぶつかっていた。
 フランシスは知っている。彼がこうなってしまうのは文字を、物語を愛しすぎているためなのだと、物語の終了と同時に精魂尽き果ててしまうのだと。それでも、それでもっ!
「だからって、何で毎度毎度、お前はこうなるんだよ!!」
部屋の主はその声にぴくんと身体を震わす。
「はらへった…」

 ガツガツとう音が今の状況を最も的確に表しているだろう。まさに先ほど己の家で行き倒れていたこの家の主・アーサーはかきこむ勢いでフランシスの用意した夜食を平らげていた。
「ふぅ…」
 最後の一滴までスープを飲み干してアーサーはようやく生き返った心地がした。今回の修羅場に入って5日間。正直紅茶以外を摂取した記憶がない。そんなことを思い出しているとふわりと鼻先を華やかな紅茶の匂いを感じた。
「何の紅茶だ?」
紅茶の茶葉の匂いに混ざって感じるのは桃と、苺と?
香の元を辿りながら感じるままに口に出すとフランシスは驚いたように目を見張った。
「お見事。」
 驚いた顔からトンと心臓一拍分の間を空けて青の宝石がふにゃりと、まるでマシュマロが甘くとろける様に、その何倍も甘い声で笑うから…
「てめぇ、紅茶に余計なもん入れてんじゃねーよ!フレーバーティーなんて邪道なんだよ!」
 言った瞬間はっと我に返った。
 またやってしまった!
こぼれた水は戻せないようにこぼれた言葉もまた、のどの奥に押し戻すことなどできはしない。アーサーの言葉にフランシスは一瞬、気が付かないほど一瞬、残念そうな顔をしたがすぐにいつもの軽薄そうな表情に戻った。
「違いますーお兄さんが入れたんじゃありませんー。これはもともとそういう商品なんですー。まぁ?お子様にはこの味の良さは分からないでしょうけど?」
 結構いい店の茶葉なんだから。と香を吸い込むフランシスの姿はどこかの王子様みたいに似合っていて、
 髭の癖に髭の癖に髭の癖に!!
「あぁ!?何言ってんだこの髭!紅茶はそのまま飲むのが一番上手いんだ!それをこんな余計なもん入れやがって、てめぇのバカ舌がおかしいんだよ!」
「ちょっ!その暴言今すぐ取り消せ!冗談でもお前に言われて堪るか!!」

 走りだした舌戦は留まることなく続く。ぽんぽんと憎まれ口を叩くアーサーは苦々しい表情とは反対にその目は爛々と輝いていた。初めてあったあの日の凍りついたような無表情からは考えられないぐらい生きた輝きを放つエバーグリーンがフランシスには愛しくて愛しくてたまらない。フランシスの料理を食べた瞬間の星の瞬きのようにきらめく瞬間だったり、こうやって舌戦を交わしている時であったり。さまざまな場面で引き出されるようになったその緑翠玉を見るためならばどんなわがままも聞いてあげたいとそう思ってしまうほどフランシスはアーサーの精一杯のうれしさを表す表現を愛していた。そのためにわざわざ締め切り空けのアーサーの家に泊りがけで世話を焼きにくるほどなのだから我ながら相当だと思う。

 初めて会ったとき、アーサーは表情のない子どもだった。
「これからうちで暮らすことになったのよ。フランシス君より3つ年下なんだけど、どうか仲良くしてやってね。」
 そう言って、フランシスの隣家に住む老婦人が孫だと言ってつれてきたのがアーサーだった。何かに怯えるようにぎゅっと祖母の手を握り締めて何者をも視界に入れないように俯く子どもにはじめは全く興味なんて湧かなかった。むしろ親に言われるがままに笑顔で挨拶しても返事をしようともしない子どもを嫌いだなとさえ思った。
 何かが変わったのはそれから半年後。

「ぉい、おい!聞いてんのか!?」
 ハッと気づくと目の前にアーサーの凶悪な顔が迫っていた。
「聞いてなかった。」
 するりとバカ正直に流れ出た言葉にアーサーが顔を耳まで真っ赤にさせる。あぁこれは機嫌損ねちゃったなぁ…
「ふ、フランシスのばかぁあああああああ!!寝る!!!!」
 顔を真っ赤にさせたまま部屋を飛び出していったアーサーに、フランシスは苦笑した。

 猛然と部屋を飛び出てアーサーは寝室に駆け込んだ。駆け込んだ瞬間今までの怒りはしゅるしゅると溶け、ずるずると部屋の扉を背に座り込んでしまえばもう怒りなんて微塵も無かった。後に残るのは後悔と寂しさ。
 また言えなかった。
 アーサーにはずっとずっと言いたい言葉があった。ずっとずっと、あの日からずっと心に秘めていて、でも言えない言葉。感謝の気持ちを表すたった一つの言葉。
「なんで言えねぇんだよ…」
 何度も何度も言おうとした。だが、出てこないのだ。心からあふれ出るこの気持ちはのどの辺りでいつもしゅるしゅるとしぼんでしまう。変わりに飛び出てくるのは悪態ばかりでいつも喧嘩になってしまうのだ。もはやいつもどおりすぎてフランシスは何とも思ってないのかもしれないが、それでも、フランシスの好きなものを否定された時に顔をよぎる悲しみや寂しさがアーサーには怖くて怖くて仕方ないのだ。
 フランシスに嫌われたら生きていけない。
 大げさでもなんでもない。まぎれもない自分の本心だ。なのになぜこの口はフランシスを傷つける言葉しか言えないのか。時々自分を殺したくなる。それでもフランシスの傍に居たいから自分を殺すことさえできないのだ。
 あの日、あの時。アーサーにとってフランシスは神にも等しい存在となった。

 生まれた時から必要とされなかった。4人兄弟の末に生まれたが、両親の間には既に愛はなく、正直今でも本当の父親が誰なのかはわかっていない。父親にとっては自分の子どもではないかもしれない、母親にとっては夫婦の仲を決定的にひび割れさせた、そんな存在が愛されるわけもなくアーサーはほとんどお手伝いさんに育ててもらっていた。事務的にこなされる育児が赤ん坊にどのような影響を与えるのか。両親の愛の恩恵を受けていた兄たちも成長するにつれて次第に両親の不仲がアーサーだと理解したのだろう。日々与えられる暴力と無関心は次第にアーサーの存在を小さく小さくしていった。自分でも存在感の希薄な子どもだったと思う。けれどそれが正しくアーサーにとっての生きる術だったのだ。それでもアーサーにも救いがあった。小さな身体をしたもの。ふよふよと風とともに空を舞うもの。植物といつも一緒にいるもの。家族ではないけれど家や庭のあちこちにいる存在だ。後に妖精と呼ばれる種であることを知った彼らはアーサーにとっては初めての、そして唯一無二のともだちだった。彼らはよくアーサーに話しかけ、いじめられたり辛いことがあると慰めてくれた。優しい優しい彼ら。アーサーは彼らがいれば幸せだった。たとえ両親や兄弟が冷たくても彼らがいれば暖かな気持ちになれた。家だけで完結した小さな世界。幼いアーサーにとってそれが世界の全てだった。
 小学校に入ることになった。義務教育なのだから当然誰もが行くのだが、アーサーにとってそれは特別な思いがあった。ともだちができるかもしれない。本で読んだ。特別に仲の良い人、ともだち。もちろんアーサーには友達がたくさん居たが彼らは小さすぎてサッカーやかけっこはできないのだ。入学式の前夜は緊張して眠れなかった。そんなアーサーを心配したのだろう妖精たちは学校までついてきてくれた。どきどきして、緊張して、でも楽しみで。だから初めて隣りの席の男の子に話しかけられたときによかったねと言ってくれた妖精に「ありがとう!」と嬉しい気持ちをいっぱいこめて感謝したのだ。
 何がいけなかったのか理解するまでしばらくかかった。
「お前どこに向かって言ってんだ?」
 そう聞かれたから新しく出来た友達に僕の友達を紹介しようとしただけなのに。何がいけなかったのだろう?
 気味が悪い。
 男の子はそう言って離れていった。名前も聞けなかった。それはあっというまに学校中に知れ渡って、ようやく皆には妖精たちが見えないのだと分かったときにはもう自分ではどうしようも無いところまで来ていた。毎日毎日モノを失くして傷だらけで帰ってくるアーサーに妖精たちはごめんね、ごめんねと謝ってくれる。違うのに、妖精のせいじゃない。僕が、僕が悪いから。それでもアーサーは耐えていた。学校から帰れば一人じゃない。妖精たちがいてくれるから。だから大丈夫。
 けれど、明らかに悪意を持たれて害を受けている様子の末の子を両親は寄宿制の学校に入れた。それが悪夢のはじまり。
 寄宿舎という閉鎖空間でいじめはどんどんエスカレートした。
 そこを出て祖母の家に移ることになったのを知ったのは病室のベッドの上だった。
 祖母の家は田舎だけど自然がたくさんある綺麗な場所にあった。当然妖精たちもたくさんいて、けれどアーサーは知っていた。これは他の人間には見えないもの。見えたらだめなものなんだ。だからアーサーはじっと俯いて過ごした。彼らが見えないように。普通の人と同じであるように。
 だけど、ある日毎日通る隣の家のバラの花を落とされていた。近所の子どものいたずらだろうか?茎の半ばからむしりとられたバラが綺麗な花弁を散らして道に転がっている。妖精が一人、落ちてしまった花を抱きしめるように、苦しそうに辛そうに泣いている。その叫びがあまりにも苦しくてアーサーは思わず妖精に声をかけてしまった。
 大丈夫か?痛いのか?
 久しぶりの妖精との会話は少し緊張したけどえんえんと泣く妖精がかわいそうで自然と言葉が出た。だから気づかなかった。アーサーが必死に落ちた花に向かって話しかけている姿を見ていたものがいたなんて。
「何してんの?」
 声を掛けられて心臓が止まるかと思った。おそるおそる振り返るといつか紹介された隣の家の男の子が上から見下ろすように立っていた。脳裏に蘇るのは小学校の入学式。あっという間に離れていった男の子。ひやりと汗が背を伝う。新しい学校は友達こそできなかったけどいじめられることもなく今日まで過ごせたのに、戻ってしまう。あの毎日に。戻ってしまう。恐怖が後から後から湧いてくる。パニック状態に陥ったアーサーが握っているものを目にして目の前の少年は「おい!」と声を上げた。その声にますますぎゅっと緊張で固まる手を握りこむと少年は慌てたようにアーサーの前に回りこんだ。
「手ぇ放せ!」
 その声に反射的に顔を上げたそこに居たのは本で見た挿絵の天使様のように綺麗な少女だった。後になんで男だって知ってたのに顔見た瞬間女だと思ってんの!?と叱られることになるのだがその時は本当に本当に思ったのだ。天使様の登場に呆然となるアーサーをよそに少女は握り締めたその手をそっと広げてくれた。
「あぁ〜ほら手が傷だらけに。握り締めたらダメじゃん。バラには棘があるの。知らないの?」
 お前、『アーサー』だろ?俺『フランシス』そう言ってアーサーの手を引いて家に連れてってくれた。手当てをしてお菓子まで食べさせてくれた。いつでも来ていいよ。またね。そういって祖母の家まで送ってくれた。フランシスはこの日神にも等しい存在となった。
 それからアーサーは毎日フランシスと一緒に登校した。フランシスの友達の中にも入れてくれて(あいつらみんな意地悪だけど)、遊んでくれた。たまにからかわれて思わずムキになったけどフランシスは殴ったりしなかった。可愛いなお前って言って頭をなでてくれた。
 それでもフランシスに妖精のことを話したときは恐怖で死んでしまうかと思った。嫌われたら生きていけないと思った。それでもフランシスにも知って欲しくて震える手を隠して友達を紹介したら、フランシスは笑ってくれた。ここにいるの?こんにちはって挨拶してくれた。馬鹿にしないで、気悪がらないで、お菓子とか食べたりするの?って。
 うれしくて、うれしくて、うれしくて、涙が出た。
 ぽろぽろと泣き出した俺にフランシスはびっくりしておろおろしてそっと頭をなでてくれた。優しく優しくなでてぎゅっとしてくれた。
「お前の目にはたくさんいろんな世界が見えてるんだな。きっとお前が物語を書いたら彼らの素敵な物語ができるんだろうな。」
 たわいない一言なのかもしれない。けれどそれは確かにアーサーの世界を変えた言葉だった。こうして物書きとして生きている今のアーサーを創った言葉だった。
 フランシスはアーサーという自分を創った神様のような人だった。
 だから、たくさんたくさん、たくさん感謝の言葉を言わなければいけないのに、どうしても言えないからその気持ちを物語にしてみた。菊から次回の物語は少年を主人公に友情もの行きましょうと言われた時に決めたのだ。フランシスへのたくさんの感謝の気持ちを込めて物語を作ろうと。だからいつも以上に自分の中の全てをこめる気持ちで物語を綴って書きあがった瞬間の達成感と今なら言えると思った気持ちは…

 いったいどこへ消えたのだろう。現実は結局言えないままこうやってアーサーは自室の部屋に座り込んでいる。
「はぁ…」
 で続けるため息を止めることもできぬままもそもそとベッドによじ登った。一眠りするかと思うまもなく疲れた身体は眠りに落ちた。

 フランシスはアーサーの食べた食器を片付けて書斎に入った。締め切り間際はほぼ書斎で生活するアーサーだ。締め切り後は特にいろいろ散らかっていて汚い。まずは窓を開けて新鮮な空気を取り込んでやる。ふと窓から自宅の庭にあるバラが目に入った。盛りの頃には大輪の赤い花弁を開かせるそれに懐かしさを覚える。あの日家の前でアーサーが居なかったら今こんな風にはなっていないかもしれないのだ。そう思うと近所のいたずら小僧やバラの妖精さんに感謝の念さえ湧き出てくる。
 最初は興味なんて全くなくて感じ悪いガキだと思っていたけれど、あの日フランシスの一挙一動に怯えと興味と感動をちらつかせる様子があまりにも可愛く、愛おしくて、送っていった先で聞かされた過去があまりにも悲しくて。フランシスはアーサーに優しくしてやりたいと思った。それが恋になったのは、うん、やっぱりあの日だな。
「妖精がいるんだ!」
 いきなりこいつは何を言い始めるのかと思った。俺はただ、なんであの日バラに向かって話しかけてたんだ?って聞いただけなのにいきなりどういう展開なんだ。それでもアーサーは顔を耳まで真っ赤にさせて、震える手を精一杯握り締めるから。これは緊張している時のアーサーの癖だ。わざわざこんなに緊張してまで嘘を言う子ではないと知っているから、まだ半信半疑だけどフランシスはそうなんだ。と相槌を打ってやった。ここにもいるの?と食卓を飾る花瓶をさして聞いてみた。するとぽろぽろとまるで新緑の若葉から滴り落ちる朝露のようにぽろぽろと泣くものだから。愛しくて愛しくて、胸がぎゅーっと熱くなって、あぁ俺はこいつが好きなんだなってそう思った。
 後日本当に妖精さんがいるのはわかったしな。
 その時のことを思い出しながらふとテーブルを見るとそこにはパソコンがつけっぱなしのままになっていた。しょうがないな。フランシスが終了させてやるためにマウスを握るとぱっとスクリーンセーバーが消え画面が明るくなる。
 それはできたばかりの原稿に他ならない。フランシスはくりくりとスクロールバーを下げていくと、『我が友 フランシス・ボヌフォアに捧ぐ』
「…俺?」
 アーサーが俺に?そんなの一言だって聞いてない。寝耳に水もいいところだ。これは見なければなるまい?だって俺に捧げる物語なんだろ?

「アーサー、アーサー!おきて、起きなさいってば!」
 耳元で喚く声にアーサーはうぅっとうなる。ずっとまともな睡眠を取ってなかったんだ頼むから寝かせて欲しい。
「アーサー!いいから起きなさい!さもないとフランシスが読み終わっちゃうわよ!!」
 よみおわる?何をだ?何を、何か読むものあったか?
…?
「よみおわる!?」
 一瞬にして破られた睡魔。思考がフルで回転し始める。
「俺パソコンの電源落としたか!?」
「もう、落としてないわよ!だから読み終わっちゃうっていったでしょ!?」
 バラの妖精は答える。アーサーがどれだけ大切に大切にあの物語を書いていたか。ずっと見ていた。だから知っている。その本をアーサーが言葉とともにフランシスに伝えたいと思っていたことも。
「ほら!はやくいかないと、本当に読み終わっちゃうんだからね!」
 その言葉にアーサーは慌てて階下の書斎へと駆け出した。

「フランシス!」
 アーサーがぶつかるように書斎のドアを開けるとフランシスは驚いたように目を見開いて、そしてその青い海のような瞳からぽろりと涙をこぼした。
 アーサーの背筋に戦慄が走る。そこまで泣いてしまうほど俺はひどいことを書いてしまったのだろうか?自分では渾身の出来だと思えたのにその自信がしゅるしゅるとしぼんでしまう。フランシスはそんなアーサーを知ってか知らずかゆらりと立ち上がりゆっくりとゆっくりとこちらに歩き出した。近づいてくるフランシスが目に入るがアーサーは逃げることも立ち向かうこともできず、ただただ嫌われたかもしれない恐怖に身体を凍りつかせた。
 あと3歩、2歩、1歩。
 とたんにぎゅぅっと身体を包むぬくもりにアーサーは目を見開いた。フランシスが俺を抱きしめてる。幼い頃抱きしめてくれた優しく包むような抱擁ではなく、全てを奪い去るような熱く強い腕の中に抱き込まれている。
「ありがとう。」
 フランシスから告げられた言葉に目を見開いた。それは俺が言うはずの…
「ありがとう、ありがとう。あんな素敵な物語を書いてくれて、ありがとう。嬉しい。すごく嬉しい。好きだよ。アーサー、大好き。」
 俺が言うはずの、言葉。ずっと言いたくて、言えなくて…
 ようやく開いた口は搾り出そうとした言葉とともにフランシスの唇に吸い込まれた。

どうしても「ありがとう」が言えなかった(きっと今でも言えないままだと思うけど)

 それは冒険の物語。大好きな君へ、ありがとうという言葉を探しに行く少年の物語。


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