名前を呼んで



―『真斗』、と呼ぶ声が好きだった。たくさんの人が自分をそう呼ぶけれど、何故だか彼が自分を呼ぶ声だけは違って聞こえた。
 たかが名前。されど名前。名前とは一体何なのだろうか。
 個を現す記号。何に所属しているかを示す標識。

 己を現す言葉を選べるというのならば。
 『真斗』とそれだけで良かったのに。

「でね、おにいちゃま!おとうさまがね、今度連れて行ってくださるって約束してくださったの!」
「そうか。良かったな。是非行ってきた感想をまた聞かせてくれ。」
「うん!ぜったいお話する!だから楽しみにしててね!」
 まだ幼い妹が必死になって楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、つまらなかったこと、会えない間に起こった大小様々な日常の事件を必死に伝えようとしてくれる。そんなに慌てずとも良いと真衣がティーカップを握ったまま興奮に手を揺らすたびに窘めるがその興奮は一向に治まる気配はない。
 それも仕方のないことなのだろう。たった一人の愛する妹はこの大きな屋敷で大人たちに囲まれて過ごしている。父も母も多忙で使用人に囲まれて過ごす真衣がどれだけ寂しい思いをしているのか。自らが経験者である真斗にとって想像にたやすい。使用人達はとても優しいがある一線において彼らは絶対にこちら側にはなれない。家族と違って彼らはあくまで家で働いてくれている人たちなのだ。彼らは使用人であることで生計を立てている。
 だからこそとても優しい彼らだが甘えることはできない。彼らには彼らのすべき仕事があり、俺たち子どものわがままはその仕事には入っていないのだ。そのことを真衣は幼いながらもよく理解していた。賢い子だ。普段傍に居られない分きっと寂しい思いをしているだろうに決して『寂しい』と言葉に出しては言わない。
―似てしまったな。
 そしてそんな所が自分達は兄妹だな、などと思う部分でもあるのだ。

 自分も『寂しい』なんて言う事ができない子どもだった。

「おにいちゃま?」
「あぁ、すまない。そろそろ時間だ。俺は寮に戻らなければ。」
 途端に真衣はしゅんと項垂れてしまう。
「すまない。話はまた今度。そうだな、外出の次の週にまた帰ってこよう。その時はきっと父上との外出の話を聞かせて欲しい。」
「…はい、おにいちゃま。いってらっしゃいませ。また、絶対帰ってきてくださいね。」
 寂しいと、行かないでと口に出して言えない妹を思う。言われた所で叶えてやれる訳ではないのだが内に秘めた思いを外に出せるか出せないかで心の在りようは大いに異なる。
「寂しい思いをさせてすまない。真衣。」
「っ、ううん、そんなこと」
「兄様は寂しいよ。真衣と一緒に居られなくて寂しい。真衣は、寂しくないのか?」
「さ、寂しいです!真衣もおにいちゃまと一緒にいられなくてさびしい!」
 帰る話を始めてから俯きがちだった顔をはっと上げ言い募る真衣の小さな体をぎゅっと抱きしめる。寂しい気持ちを分かち合うように抱きしめ合ってそっと体を離すと暗い表情だったのが頬に赤みが差し、愛らしい妹の本来の笑顔が覗いた。

―幼い真斗にも『お兄ちゃん』がいた。
 かつて兄と慕ったあの男のことを考えると真斗の胸がツキリと痛む。数多の女性と関係を持ち、誑かす女たらし。不埒な!複数の女性と関係を結ぶなど男の風上にも置けない。女性に対する行動としては余りにも誠意が欠如している。それでも何故か彼の周りには女性の姿が絶えず付き添っているのだから不思議だ。
 (世の婦女子はあのようなチャラチャラした男が良いというのだろうか。)
 昔はあんなのではなかった。もっと頼もしくて何でもできてキラキラしていて。
 憧れていた。きっと父よりも。俺は『神宮寺レン』という人間に憧れていた。
 なのに、いつしか『お兄ちゃん』は消え、残ったのは事ある毎に俺と張り合う『神宮寺家の末息子』だった。

 帰り道、寒くなく、蒸し暑くもなく。心地よい学園の前にある並木道を真斗は一人で歩いていた。本当は東京の自宅から運転手が車で送ってくれたのだがあまりにも外が気持ちよさそうだったので大分手前で下ろしてもらったのだ。そしてそれは正解だったようで、すっかり春も半ばを過ぎた心地の良い風に吹かれていると嫌な事も忘れられるような気がした。
 学園を卒業してシャイニング事務所所属となったのは1ヶ月と少し前だ。一年という短いようで長い時間は今までの人生で一番濃厚な時間として強く心に刻まれている。
 そして、晴れて卒業を迎えた日。聖川真斗は神宮寺レンとの決別を決意した。
 幼い頃から積み重ね、学園生活で花開いたこの想いは一生誰の目にも触れさせることなく封印すると決めたのだ。
 理由はたった一つ。自分は『アイドル』になるからだ。アイドルは恋愛禁止。この生産性も意味さえないくだらない思いは捨ててしかるべきものだった。

くだらない、本当にくだらない。愚かな想い。

 学園を通りすぎてそのまま歩いていくとそこにシャイニング事務所所属者のための寮がある。洒落た洋館のような佇まいの学生寮とは違い完全個室の寮はちょっとしたマンションのような外観をしている。
 その寮の入り口から丁度出てくる人影が一つ。
「聖川さん?」
 掛けられた声は学生時代に何度も話したことがある神宮寺のパートナーを勤めていた女性だった。
「久しぶりだな。元気にしていたか。」
「はい、聖川さんも。」
「あぁ、最近少しずつだが仕事も増えて順調だ。」
「あ!聖川さんのお家のCM、拝見しました。あれは聖川さんの歌、ですよね。」
「あぁ気づいたのか。そうだ。名を伏せてオーディションに参加したら最後まで行く事ができてな。」
「すごいです!私あの曲大好きです。」
 今までの誰よりもストレートな好意の感想に一瞬言葉に詰まる。
「っあり、がとう。そう言ってもらえると俺も嬉しい。だが、すごいのはお前と、神宮寺もだろう。」
 仕事が増えてきていると日向先生にも聞いたと言うと彼女ははにかむような愛らしい笑顔で笑った。
「私なんて全然。すごいのは神宮寺さんです。神宮寺さんが素敵な声で歌ってくださるから私の歌の良いところは引き出されるんです。
「いや、お前の力はすごい。お前の作った曲は人を惹きつけるものがある。」
 あの曲は君が作ったのだろう?と歌詞もないドキュメンタリー番組のBGMを挙げると彼女は一瞬目を見開いて思わず見惚れてしまう愛らしい笑顔で微笑んだ。
 これだから…

 これからまた新たな番組の打ち合わせなのだと出かける彼女を見送って寮の自室の前までたどり着けば丁度隣の部屋の扉が開くところだった。

「聖川?もう帰ってきたのか?」
「…神宮寺。」
「久しぶりの愛する妹とのデートだろう?もっとゆっくりしてきたら良いのに。」
「いや、そうも行くまい。明日も早朝から仕事があるのだ。」
「夏の2時間ドラマ?」
「そうだ。」
 ふと我に返る。なぜ俺はこいつと立ち話などをしているのだろうか。
「ではな。」
 言葉は一言。そっけなく自室の鍵を開け、会話を断ち切る。




「おい。」

 パタンと玄関が閉じる音。
「ん?」
「おい、と言っている。」
「そうだね。」
「何故貴様は人の部屋に入ってるんだ?」
「いいじゃないか。」
「良い訳あるか。出てけ。」
「…嫌だと言ったら?」
 神宮寺の手が肩越しに伸びてきて横髪をさらさらと撫でる。自然な形で伸ばされた手の親指の爪が意図せずに頬を掻く。
 ぞわり、と平常心では耐えられない何かが背筋を走り抜けた。
 真斗は無言で体を返し伸ばされた腕を掴んだ。そのまま玄関を開け外にこの不法侵入者を放り出そうと一歩を踏み出せば、何故かそのままレンの腕の中に収められてしまった。
「…おい、神宮寺何を。」
「お前さ、何で避けてるの?」
「…何の事だ。」
「嘘つきだな。卒業式以来ずっと人のことを避けてきたくせに。」
 嫌だ。反射的に思った。嫌だ。この話は、この話の流れは、嫌だ。嫌だ。
「っ放せ!」
「嫌。」
 そう言ってレンは抵抗ごと絡めとるように真斗をきつく抱きしめた。レンの腕の中は暖かくて、気持ちよくて、…懐かしくて。
「放せと言っている。」
「嫌?」
 同じ言葉で異なる意味を持つそれに真斗は答えられなかった。嫌なのに。放れなくてはいけないのに、逃げなくてはいけないのに。神宮寺には、彼女がいるのに。
 嫌じゃないのがとてつもなく嫌だった。
「…放してくれっ!!」
「嘘つきだね、『真斗』」
 あまりにも懐かしい、優しい声がそれも耳元で囁かれて真斗の体から力が抜けそうになる。一瞬身動きをとれなくなった真斗を更に突き崩すように触れた唇に真斗はありたっけの力で神宮寺を突き飛ばした。
「出て行け。」
「おい、ひじり」
「出て行け!!」
 神宮寺の声がいつの間にかいつも通りと違和感無く思えるようになった名前を紡ぎきる前に大音声で退去命令を出した。
「―頼むから、出て行ってくれ。」

「嫌だよ。」
 きっぱりとした声音に真斗の肩が震えた。
「なぜ、何故だ。お前には『彼女』が彼女がいるだろう。なのに、なんで…」
 こんな真似、許されない。
 何故自分は諦めたのか。諦める事を決意したのか。これでは意味がない、決意を揺るがされては意味がない。
「彼女?」
「そうだ、お前は決めたのだろう?彼女をたった一人の人だと。」
 でなければ説明がつかない。卒業式を前にあんなにぞろぞろと引き連れていた女性達を整理し始めた。といっても天性の女たらしである。全員に丁寧に話し合い綺麗に別れを告げた。
 そうやって神宮寺は彼女だけを傍に残した。
 その姿を真斗はすぐ近くでずっと見ていた。それは言葉よりも尚雄弁な。真斗の淡い想いを粉々に砕くには十分すぎる行動だった。
 だからこそ諦めたのに、諦めたと思っていたのに。『アイドル』なるという夢の実現でさえ言い訳にして。なのにたった一瞬触れただけの唇が心の奥底にしまい込んだ箱の鍵を粉々に砕いてしまった。
「聖川、」
「違う。なまえが、名前が良い。」
「…真斗。」
「っ。」
 心の奥深く、しまいこんだ箱の中から次々と溢れ出る想いが少しずつ真斗の心を満たしていく。こんなにも、こんなにも暖かくて大切な想い。
 どれだけの決意と苦しみをもってしまいこんだと思っているのだろうか。この男は。こんな男、好きになりたくなんてなかった。なかったのに。
「大っ嫌いだ。」
「そう?俺は大好きだけど。」
 あっさりとそうのたまうこの男を蹴り飛ばして殴り倒してしまいたい。
「それにレディのことは誤解。何に関して誤解してるのかは想像がつくけどね。彼女は俺の大事なパートナー。きっと『アイドル』でいる限りずっと一緒にやっていく大切な人。』
 でもそれはlikeでloveじゃない。
「愛してるのは、お前だけだよ。真斗」
「あ、あいっ」
「そう。愛してるの。」
 まじめな顔をして愛を囁いた男がふっと笑った。
「馬鹿だな。昔から変わらない。お前の寂しい顔は本当に分かりやすい。」

 昔、自分の背丈が今の半分しかなかったくらい昔の話。
 『真斗』と毎日呼ばれる自分の名前。その名前がたった一人の少年が呼ぶときだけなぜかキラキラと輝いて聞こえた。
 退屈なパーティー会場からいつも連れ出してくれるその少年はいつだって真斗の憧れだった。
 その少年は何故か真斗の言えない『言葉』に気がついて助けてくれた。
 寂しい時は人肌がいいと教えてくれたのもその少年だった。
 その時はただその温もりに安心して、享受していた。
 それが遠い昔となった今なら分かる。
 『神宮寺レン』という人間を知って、真衣に温もりを与える側に回って気づいたこと。
 『お兄ちゃん』が俺にしてくれた事はきっと自分がして欲しかったことだ。
 父との軋轢、兄との不和。空気のように扱う使用人。それがどれだけ寂しい事か。真斗には想像もできない。

 いつもしてもらうだけだった。与えてもらうだけだった幼い自分。
 だから今度は返すね。貰った分それ以上にいっぱいに。ね、『お兄ちゃん』
「レン。」
 まずは名前。そして優しい口付けを。初めて自分から触れた唇は蜜の味がした。



うーん…挫折した勘がいなめない。

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