エメラルドラビリンス



 かって知ったるとはよく言うが、明らかに我が家より馴染みのあるスペインの家。預かっている合鍵を使って中に入ると、

 歌が聴こえた。

 廊下とリビングを隔てる扉の前でロマーノは今まさに扉を開けようとドアノブに手を掛けたまま停止してしまった。
 スペインが歌っている。扉の向こう側から漏れ聞こえるギターと歌声。扉を開かなくてもお気に入りのソファにギターを抱えて爪弾くスペインの姿が目に浮かぶようだった。
 まぁそれ自体はたいして珍しい光景ではない。スペインは歌が上手い。幼い頃なんども子守歌を歌ってもらった。今でも月に何度かパブで歌っているのも知っている。だから珍しくともなんともなくて、いつもの光景で、このまま中に入ってしまえばいいだけなのに…

 なのになんで手が動かねーんだ!ちきしょう!

 ロマーノがそうこうしている間にも歌はどんどん紡がれていく。しっとりとした旋律の、これは、恋の歌。叶わぬ恋をいつまでも胸に抱き続ける女の歌。いつもの明るい声とは違う、歌うときだけに聞ける少し低めの声が音程をつくり歌詞を紡ぐ。

 なんで…

 胸の辺りがじんわりと熱くなる。このままずっと聞いていたいような、むしろ泣いて喚いて逃げ出してしまいたいような。不可思議なこの熱は痛みと共にロマーノを揺さぶった。

 どうして?

 気がついたらロマーノはスペインの家のすぐ近くにある小さな公園に来ていた。
「なんでだ?」
 逃げてしまった。逃げる理由なんてどこにもなかったのに。なんで?どうして?疑問が胸を渦巻くけれどたった一つの真実がロマーノを打ちのめした。
 ―スペインから逃げてしまった。

 暖かな陽射しの降り注ぐ午後の公園は親子連れでにぎわっていた。それをぼうっと眺める先で赤ん坊がベビーカーからその小さな手を伸ばしていた。その手はどこまでもまっすぐにただ母親、その人だけを求めて。
 その姿になんだか泣きたくなった。
 あんな風に素直に、ひたすらに手を伸ばせたらスペインは俺を好きになってくれただろうか。 ―弟のように…
 もし、弟のようには無理でも素直に手を伸ばすことが出来たら、スペインはその手を取ってくれるのだろうか?

 子分でもない、弟でもない、友達としてでもなくスペインを求めたら…。もしを積み重ねたその埒もない仮定をけれどロマーノは頭を振って追い払った。
 それは考えても仕方のないこと。だって、いやきっとスペインはきっと掴んでくれるのだろう。
 スペインはとても優しいから。

 そう考えてむくりと疑問が頭を擡げる。
―それだけでいいのか?

 いつからだろう。優しいだけじゃいやだった。その優しさでさえ自分には素直に享受できないのだけれど。どうしても素直になれない自分は、いつもその優しさを跳ね除けてしまう。
 挙句俺は今こうやってその庇護の下から離れてしまった。
 だけど、

 会いたかった。
 弟と一緒に住むことになって、同じ2人分の体温なのにスペインと二人で眠っていたときとは何かが足りなかった。

 ずっと一人前になりたかった。俺のためにぼろぼろにならざるを得なかったスペインに何度ももういいからと思っていた。守られるだけではない、守ってやれるような一人前の男になりたかった。無償で施される愛情と優しさが嬉しくて苦しくて悔しかった。
要約念願かなって一人立ちをして、離れ離れに育った弟とも一緒に暮らせるようになって、なのにその何かのせいで無性にスペインに会いたかった。
今も、誰よりもスペインに会いたかった。
好きだと思った。たぶん、弟に対して思うのとはまた違う意味で。

あぁそうか。不意に納得がいった。
逃げてきた理由。

怖かったんだ。愛する人への叶わぬ恋の歌。
それは誰に向かって歌ってるんだ?
誰を思って歌ってるんだ?
知りたい。そう思うのと同じかそれ以上に知りたくなかった。知るのが怖かった。
―スペインの気持ちなんて知りたくねーよ!

だって知ったら戻れない。
いつだって与えられるその笑顔、ぬくもり。けれどスペインの気持ちを知ってしまったらもうそれは俺のものじゃない?
誰か知らないそいつのもの?

知りたい。
―知りたくない。

 でも、

 『会いたい。』

「ロマーノ」
 名を呼ばれた。驚いて振り返るとそこには、
「す、スペイン…。な、なんでこんな所にいんだよ!」
 会いたかったその人がいた。
「なんでて、気配感じたのにおらんから探しに来たんよ。」
「な、何で来んだよ!」
―会いたかった。
「そりゃ、ロマーノが来てくれたのに顔も見ずに帰ってまうんやもん。心配するやんか。」
「か、勘違いだったかもしんねーだろーが!」
―なんでわかったんだ?
「ないよ。あるわけない。親分が子分のこと間違えるわけあらへんよ。」
「う、うるせぇよ!ちょっと忘れ物しただけだ!こんにゃろー!!」
―変なこと言うなちくしょー!!
「ふーん…で?忘れ物はあったんか?」
「え?あ、…う、うるせー!かんけーねーだろ!」
「ほな帰ろか。」
 当たり前のように言われた言葉にぽかんとなる。腕を取られてぐいぐいと引っ張られる。
「って、離せ!こんちくしょう!行くなんて言ってねぇだろうが!」
 びっくりして思わず叫んでしまった。
「来んの?」
―な、なんだよ。なんでそんな顔すんだよ。そんな痛そうな顔すんなよな。
 そんな顔、してほしくないのに天邪鬼なこの口は自分の思いとは正反対の言葉を紡いでしまう。
「い、行かねぇよ!」
 あぁ、またやってしまった。飛び出してしまった愚かな台詞にロマーノは今すぐ死にたくなった。けれど…
「いやだ。」
「っ…」
 太陽の陽射しを受けて翡翠の瞳が妖しくきらめく。そこにあった真剣な表情、それに俺は魅入られて、

 鼓動が止まる。

「お、お前には関係ねーだろーが…」
「あかん。」
 声が震える。それでもまだこの口は素直になることが出来ない。

 (それでも本当は分かってる。)

「…なんでだよ。」
―なんでそこまで必死になるんだ。俺のために。俺なんかのために。

―俺のこと好きじゃないくせに。

「親分が一緒に居りたいんよ。だから、ほら、帰るで。」
 そうやって差し伸べられた手をロマーノはじっと見つめた。傷だらけの手だ。長い時、俺を守ってくれた暖かくて大きな手。
―勘違いしそうになる。好きになってほしい。俺のこと好きになれよちくしょう…

 スペインは相変わらずロマーノがその手をとることを少しも疑わずに差し伸べた手をぴくりとも動かさない。その瞳はロマーノを絡めとり、心を、奪う。

「し、しかたねぇなぁ」

 (本当は分かってる。俺は逃げられない。)

 嬉しそうに綻んだ笑顔。戦いと農作業に荒れた、けれど優しい手のひら。

 たとえこれが仮初のものだとしても。
―今だけは、俺のだ。




 ようやく手を握り返してくれた愛しい子にスペインは満面の笑みを返した。愛しい子は照れくさそうにそっぽを向いてしまったけど、その手は放れることなくぎゅっと握り締められる。
―まぁ、放せ言われても放したらんけどな。
 (逃がさへん。逃がしたらへん。絶対に。)



愛する友人のために初挑戦してみました。西ロマです。
好きになってもらえるはずないと思いこんでるロマーノとぐるぐる悩んでるのを知りつつどんな形でも傍から放したくない黒分でした。
西ロマ初書きすぎてどうしたらいいかわからなかったんだぜ☆
しゃべりかたもようわからんし。
ちなみに文中のスペインの台詞『来んの?』は『来ないの?』って意味なんですが、親分の関西弁がいまいち掴めなかったので私が話すならと仮定して考えました。
これは違う親分じゃないって所があったら是非教えてください。
それではお目汚し失礼いたしました。

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